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SEとしてシステムを組み上げ、バーテンダーとして人の機微に触れ、経営者として荒波を越えてきた。そんな50代の私が今、人生の後半戦で辿り着いたテーマは「引き算」です。
住まいは海から少し離れた、静かな田舎の古民家。 杉の無垢材と漆喰で仕上げた白と木目の空間。身の回りは無印良品やAppleのミニマルな道具たち。
そんな「静」の暮らしと、趣味であるサーフィンの「動」の時間を繋ぐパズルの最後のピース。そ
れが、Sigma fpです。
「スペックの足し算」に疲れた大人たちへ

かつてプログラマーだった私は、スペックの数字を信じ、最新技術を追いかけることが正義だと思っていました。カメラも同じです。「瞳AFが……」「連写速度が……」と、機能を足し算していくことで、良い表現ができると信じていた時期もありました。
しかし、今は違います。
Sigma fpを手にしたとき、私はその「何もなさ」に衝撃を受けました。
ファインダーも、グリップも、手振れ補正さえもない。ただの「小さなアルミの箱」。
でも、その潔さが、私に「本当に必要なものは何か?」を問いかけてきたのです。
「絶望的なAF」が教えてくれた、足るを知るという贅沢

正直に言えば、最初は裏切られた気分でした。 もともとフルサイズの動画機として期待して導入したSigma fp。しかし、その動画AF(オートフォーカス)は、お世辞にも実用的とは言えませんでした。迷い、外れ、肝心なところでピントが合わない。
現代の最新機なら「瞳を追いかける」のは当たり前。そんな便利さに慣れきっていた私は、一度はこのカメラを放り出しそうになりました。
しかし、私は踏みとどまりました。逃げずに「マニュアルフォーカス(MF)」で撮るという選択をしたのです。
自分の指先でピントを追い、光を読み、機械に頼らず自分の技術で瞬間を捉える。その面倒で濃密なプロセスを経て気づいたのは、**「不便こそが、私を自由にした」**ということでした。
カメラの仕組みを学び直し、操作を指に馴染ませる。
その過程で得られたのは、単なる綺麗な映像ではなく、「道具を使いこなす喜び」そのものでした。
かつて愛したRICOH GR2もそうでしたが、尖ったコンセプトの道具は、使う側に「覚悟」と「成長」を求めます。

「足るを知る」。
便利であることに越したことはありませんが、不便と向き合うことでしか得られない豊かさがある。
Sigma fpは、私にその「大人の余裕」を教えてくれたのです。
白と木目の空間に馴染む、主張しない佇まい

私の住む古民家は、海から離れた静かな場所にあります。 都会や海辺の喧騒とは無縁の、白と木目を基調とした静かな空間。 ここに、いかにも「精密機械」といった体裁の大きなカメラを置くと、その場の空気が少しだけ重くなってしまいます。
しかし、Sigma fpは違います。
無印良品のキッチンツールや、MacBook Airの隣に置いても、驚くほど自然に溶け込む。
主張しすぎないデザイン、マットな質感。
それは、私が目指す「引き算の美学」そのものです。
「撮るぞ」と身構えさせるのではなく、「そこにあるのが当たり前」という心地よさ。この距離感が、田舎の何気ない光を切り取り、海へと向かう道中の景色を記録する気にさせてくれます。
結び:便利さの先にある、贅沢な「余白」

「便利さ」や「多機能」が溢れる今の時代、あえてそこから一歩引いてみる。
それは、かつてバーのカウンターでお客様の沈黙を大切にしていた時間や、サーフボードの微細な傷を指先でなぞる瞬間に似た、贅沢な「余白」なのかもしれません。
Sigma fpという「小さな箱」が私に教えてくれたのは、スペックを追うことよりも、自分の感性を信じることの楽しさでした。
私のブログでは、こうした「引き算の美学」を軸に、日々の暮らしを少しだけ身軽にし、心を整えてくれる道具や考え方について綴っています。
もし、あなたが日々の情報の波に少し疲れを感じているなら。
他の記事も、リラックスした気分のときにでも、のぞいてみてください。 そこには、あなたにとっての「心地よい余白」を見つけるヒントがあるかもしれません。
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