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「カメラに何を足せば、いい写真が撮れますか?」
もしあなたがそう考えているなら、今すぐこのページを閉じて、最新のAI搭載機を買いに行くべきだ。そこには、あなたの失敗をゼロにする「親切な自動化」が待っている。
だが、もしあなたが、膨れ上がった機能や、便利さと引き換えに巨大化した機材に「ノイズ」を感じているなら、私の話を聞いてほしい。
私のカメラ選びの基準は、残酷なほどにシンプルだ。
「コンパクトであること。軽量であること。そして、デザインが簡潔であること」 これだけだ。
この3点を満たさない機材は、どんなに高性能でも、私の人生には必要ない。なぜなら、持ち出すのを躊躇う重さや、思考を遮る複雑な操作系は、クリエイティビティを殺す最大の「足し算」だからだ。
2026年、SIGMA BFという魅力的な後継機が登場した今でも、私は初代「Sigma fp」という、手ブレ補正もメカシャッターもない不自由な「鉄の箱」を愛用している。
世のインフルエンサーはこぞってバリアングル液晶や完璧なオートフォーカスを求めるが、私は思う。
「その足し算は、本当にあなたの表現を豊かにしたか?」と。
この記事は、カタログスペックをなぞるためのものではない。 元SEであり、今は「引き算の表現者」として生きる私が、この欠陥だらけで美しいカメラと共に歩んだ4年間の記録だ。不便を能動的に受け入れ、主導権を自分の手に取り戻す。その先に待っている「没入」の景色について、本音だけで語らせてもらおう。
羨望を切り捨てる覚悟:AF(オートフォーカス)という名の妥協

正直に言おう。SONYの瞳AFに惹かれなかったわけではない。ワンオペで動画を撮る身として、爆速で正確なAFは喉から手が出るほど欲しかった。
fpのAFの弱さは、私にとって単なる「欠点」であり、そこは今でも妥協でしかない。
それでも、私はfpを選んだ。
なぜか。
この洗練された鉄の塊が持つ「サイズ感」と「美学」が、私のクリエイティビティを刺激する優先順位において、利便性を上回ったからだ。
機能を足せば、失敗は減る。
だが、心を揺さぶる「質感」まで足されるわけではない。
私は、最新のロボットを相棒にするのではなく、不器用だが愛すべき「道具」を選び取ったのだ。
「バリアングル」という足し算の押し売りへの違和感

誤解しないでほしい。
バリアングル液晶はあれば便利だ。厚みも重さも変わらない魔法があるなら、ぜひ付けてほしい。
だが、現実は残酷だ。
機能を一つ足せば、必ず何かとトレードオフになる。サイズか、重量か、堅牢性か、あるいはデザインの純粋さか。
私が辟易(へきえき)していたのは、液晶が動くかどうかではない。「バリアングルこそが正義」と、メーカーに無責任な足し算を強要し続ける、インフルエンサーたちの思考停止したノイズだ。
自撮りをするYouTuberには必須だろう。だが、全人類が自撮りをするわけではない。
「〇〇が付いていないからダメだ」という減点方式の評価は、メーカーから「尖った個性」を奪い、どこを見ても同じような顔をした「中庸な優等生」ばかりを量産させる。
私は、fpの「動かない液晶」を含め、SIGMAというメーカーのカメラを『最小単位(核)』まで削ぎ落とすという覚悟」を見た。だからこそ、私はこの不便な液晶を「潔さ」として受け入れている。
「迷うAF」を切り捨て、ピントの主導権を奪還する

動画撮影において、fpのAFは確かに「使い物にならない」。
瞳AFが迷い、ピントが泳ぐ。
だが、それを嘆いてSONYへ逃げる前に、考えてみてほしい。
カメラにピントを「任せる」ことは、表現の一部を機械に「委ねる」ことだ。
私はあえて、MF(マニュアルフォーカス)で戦う道を選んだ。
自分の手でフォーカスリングを回し、狙った位置に光を止める。その瞬間、撮影は「作業」から「能動的な没入」へと変わる。制限があるからこそ、構図を練り、被写体の動きを予測する。不便が私の「撮影スキル」という一生モノの財産を育ててくれたのだ。 「オート」で撮らされる100枚より、自分の意志で撃ち抜いた1枚を。それがfpが教えてくれた表現の真髄だ。
ただし、写真撮影においては、AFは不自由なく機能するので心配は無用だ。
電池不足は「資源管理」で解決する

「バッテリーの持ちが悪い」のも事実だ。
だが、これは単純な計算問題に過ぎない。 ボディを大きくして大容量バッテリーを積むのは「足し算」の解決だ。私は、最小単位のボディ(核)を維持したまま、安価に手に入る純正予備バッテリー(BP-51)を複数持ち歩くことで解決した。
2,000円程度の予備を2〜3本忍ばせておけば、1日の撮影には十分。さらに専用チャージャー(BC-51)があれば、撮影の裏で常に補充が効く。 「機材を大きくする」のではなく、「自分の運用を最適化する」。この身軽なリソース管理こそが、引き算の表現者の戦い方だ。
視線の引き算

秋の曽木の滝公園。 周囲の誰もが、燃えるような紅葉にレンズを向け、「彩度」を足し続ける喧騒の中にいた。
だが、私の足を止めたのは、その一角に置かれた長椅子だった。 色彩というノイズを削ぎ落とした先にある、無機質な鉄と木の質感。 Sigma fpのカラーモード「T&O」を走らせると、秋の温かなオレンジと、影に潜む冷徹なティールが、その椅子に異質なまでの「存在感」を与えた。
「何を撮るか」ではなく、「何を撮らないか」。 fpという最小単位の核を手に、自分の直感だけを信じてシャッターを切る。 この写真は、私が便利さや世間の正解を引き算し、表現という深い海に潜った証だ。 高精細なAIが弾き出す「正しい秋の写真」には、この静かな震えは写らない。
不都合な純粋が写し出すもの
「手ブレ補正はない。AFも迷う。だが、このカメラは光を裏切らない。 機能を削ぎ落とし、最後に残ったのは、撮り手の指先と、被写体の呼吸だけだった。」
あなたは、この「核」を手懐けられるか?

4年間、SIGMA fpを使い続けて分かったことがある。
このカメラは、誰にでも勧められる「正解」ではない。
むしろ、万人にとっての「正解」を拒絶した先に、このサイズと質感は存在している。
便利さを足していく生き方は楽だ。だが、その便利さの裏側で、私たちは「工夫する喜び」や「没入する時間」を少しずつ手放しているのではないだろうか。
SIGMA fpという「最小単位(核)」を手に取ることは、不自由を受け入れることだ。
そしてその不自由は、あなたに**「表現の主導権」**を返してくれる。
2026年、カメラがもはやAIの塊となった今だからこそ。 自分の手で光を選び、自分の足で距離を測る。そんな泥臭くも純粋な体験を、あなたにも味わってほしい。
「核」の純粋さを殺さず、映像を切り取るための最小インフラ。
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